夢幻泡影

慶應女子大生の呟き

テクノロジー

 

最近自分の中でモヤモヤしてることがあってね

 

それは世の中が便利になることと幸福になることは一緒なのか ってこと

 

 

前のブログで、世の中が便利になったことで原宿の文化が陳腐化して~と不満を吐いた話ね

 

 

便利さと幸福、どう自分の中で正当化させるかが上手く説明できなくって

 

 

(私は何でも正当化させないと前に進めない面倒臭い女。やめたい。経済と倫理はどう正当化されますか?誰か教えて下さい)

 

 

 

今日は大人の人にそれについて聞いてみた訳さ

 

 

 

そうしたら、便利になった結果と、その前を比較できることはいいことだよねーとか

それで悪い結果がもたらされたらどうすりゃいいか考えなーーと最もなことを言う大人がいて

 

そいつはまぁどうでもいいんだけど、

もう一人の方がいいこと教えてくれた

 

 

 

 

ジュラシックパークって知ってるでしょ?

日本でいう縄文時代だった時代、

人は4時間働ければ1週間食べられたんだよ

 

なのに今は週8時間、5日間労働

 

縄文時代の方が幸せじゃない??と言ってしまうこともできるよねって

 

 

 

うんうん。

私の小学校の時の将来の夢は「自給自足」

 

なので、縄文時代いいな~~~生きるために働いているから、生きる実感があるなぁ~~~って思ってしまうタイプ

 

原宿に行って一点ものの古着を買うことが価値なんだから、それ以上の便利さはいらねぇ~~原点回帰しろよ~~~というタイプ

 

 

 

でも待って~ほんとにそうなの~?っていうのがその大人の見解で

ふぁくとふるねすって本が最近流行ってるけど、あれは世界が悪くなっているように見えて、実は段々良くなってるという本

 

本屋でぱーって読んだけど、

これ書いてる人キリスト教圏の人なんじゃないの?

世界は堕落するっていうのがキリスト教でしょ?

とばりばりにルソー大好きな私からしたら思ってしまった訳

 

 

でも実際は、データを見ると貧困が減ってて良くなってるように見えるのも確か

 

 

大人の人は、「良くなってる」=「幸せの総量が増えてる」じゃなくて、「不幸の数が減っている」って捉えてみようと言ってくれた

 

 

縄文時代は人の寿命も短かった

不慮の事故で死んだ人間も多かった

貧民も多くて、色々な機会を損失してる人間も多かった

 

 

でも、今は不慮の事故で死ぬことは減ったし、機会の格差も是正されつつある

 

 

山梨に住んでいた頃の私は、もっと服を買いたい!!と思って通販を利用してた

 

テクノロジーは、田舎で何も変えないという格差をなだらかにしてくれた

 

機会を平等にすること、不幸を無くすこと、これが人類の歴史なのかぁと

 

 

 

縄文時代で、4時間働いて1週間食えるのは、逞しい健康な男で

 

それ以外はこういう男に頼ってたんだ

子供の生存確率は低い

 

こういう不幸をなくすためのテクノロジー

 

 

おばあちゃんは生殖機能失ってて生産性ないから、養う理由がないから、過去の民俗学ではおばあちゃんの存在を正当化できなかった

 

 

最近の研究では、おばあちゃんがいることで子供を守ってる、生存確率を増やしてるので必要だ

子供が幸せになってるかは分からない

 

 

路上ライブを生で見ることの方が幸せ

でも、渋谷の路上ライブを見れない田舎の人間がSHOWROOMで見れることは機会の均等化、ちょっぴり幸せになってほしいという願い

 

 

富を最大化します、ではなく、社会課題を解決する、

 

 

テクノロジーはあくまで道具だから、それを富を最大化するために利用しても、社会課題を解決するために利用しても

決めるのは人間だから

 

 

 

結局、テクノロジーが悪いのではなく

それを使う人間の方に問題があるのかもしれない

 

 

 

不幸をなくすこと、それはもう今の日本では殆どやられているような気もするけれど

なるべく人が不幸にならないように、ということを願おう

 

 

 

媚態、意気地、諦念

 

 

渋谷のマークシティ付近の焼き鳥屋さん

 

ビールと焼き鳥が美味しくて最近よく行っている

 

今日は酔ったから、素直に自分の言葉で書いてみよう

酔ったら素直になれるもんね

 

 

渋谷から東横線に乗って帰路

運良く通特列車で座ってる

 

 

頭が1ミリも働いていないけれど、文書を書いてないと乗り過ごしてしまいそうだから、書いちゃおう

 

 

 

 

最近は心のタンクを埋めさせられて、誰かに会いたいとかあまり思わない

 

寂しいけれど、なんかこう、ぐっと心のタンクを占拠しようとしてくるものが現れたら、

お前は邪魔なんだよなぁって思っちゃうんだよね

 

 

自分にとって大切なもの、それは一つじゃないから

心のタンクはカラフルで、色んな要素が混じってて

なのに、それを一色に、自分と同じ色にしようとしてくるやつはムカつくから

ごめんね

 

 

ブーメラン

 

 

 

一緒に飲んだ拘りの強い友達が「拘りと誇りは区別しろ」と言われたらしい

 

 

ほんとにねぇ

 

 

自分に対して誇りなんて1ミリもないけれど、拘りだけはあるから、ダメ、ね

 

 

自分に対して誇れたことなんて、あるだろうか

 

 

 

ないから、誇れるように、

心のタンクをカラフルに満たせるようにしなきゃあね

 

ぽっかーーーりと心に穴が出来ちゃわないように

 

 

自分が拘ってたものなんて、自分にとっては大事だけど、目線を変えてみると大事でなくなることもある

 

きっと今まで拘ってきたのは、倫理と経済をどう両立させるか、という理論

 

大事な議論だけれど、

世の中は両立できてるんだと割り切るしかないし、

割り切らず嫌悪を抱いていても何も始まらないから、心は穏やかにして理論を構築しよう、そこに誇りを持とう

 

 

 

 

素直に素直に

でも誇りをもって頑張って

拘りを押し付けず

他人は他人、自分は自分

世の中どうにかなるさ~って

 

 

そんな器用なことが出来るかな

 

 

 

 

美学でよく九鬼周造が「いき」とか言うけれど

それがどれだけ高度な人徳を表すか

 

 

そういえば、新橋の広場でたま~にやってる古本市で、九鬼周造の本を見つけたけれど、買わなかったな、

代わりに平山郁夫の画集と、ハイデガーの『存在と時間』の上・中・下、あとは構造主義の解説書を買った

買えばよかったかな

 

 

 

いきな人間になりてえ

 

 

丁度よーーーく生きたいものだね

 

 

 

 

とにかくビールが美味かったなあ

 

 

 

 

濁流に乗れなくて

 

 

山梨に住んでいた頃は半年に一度行ける原宿が大好きだったのに、上京すると原宿が近い存在になり、商業化で文化が陳腐化、行かなくてもネット上で事が足りてしまうのでワクワク感が減った


だから、世の中が便利になる事はいい事じゃないという社会観みたいなのがあるので虚しい

 

 

というツイートを昨日した

 

 

どうも世界を見てみると、世の中をより便利にしたい!という会社が蔓延しているように思われる

 

確かに、世の中を便利にすることは大事だ

 

例えば、最近はAIがどうのこうのと言われるけど、

AIが診断を行って医師の労働を減らせれば、医師もしっかり働け、患者にとってもよりいい

 

無駄なもの、人がやらなくてもいいものをシステム化することは、その分、人にしかできないものをより可能にさせるのだ

 

 

しかし、原宿が大好きだった身からすると、便利になればなるほどつまらなくなることも分かる

 

8年前くらい前では、稀に通販サイトをやってる原宿のお店があって、中学生が持てる少ないお金の中で買った

 

でもそのサイトは品数があまりよろしくなくって、次はどんな商品が出るのかな?といつも心待ちにしていた

 

それから数年後、eコマースが発達した

 

原宿のデザイナーの商品をパクって安く売るお店が出てきて通販で売っていた

 

嬉しかったけれど、なんだかムズ痒かった

 

 

これによって、原宿がより多くの人に広まり、手に入れやすくなる、支払いも便利になる

そのことはとってもいいことなのに

 

 

一点物の服を掘り出すということに価値を置いていた私からしたら、工場で量産化された服は陳腐なものにしか見えなかったのだ

原宿には未だ素敵なお店はあるけれど、原宿という街全体を見ると昔のような面白みは感じられない

 

原宿が資本主義に飲み込まれてしまった!

フリルというフリマアプリも楽天に買収されてしまった

 

 

しかし、私が大好きだったあの原宿も、実は既に資本主義の中にあった

Zipperという今はなき雑誌

インターネットの中の少ない情報

400円で竹下通りに売られているパニエ

通販サイトを開いている数少ないお店

中学生の財布に優しい服屋さん

 

あの当時の原宿が自分に合っていただけで、私は取り残されてしまっただけかもしれない

 

 

大人はよく、あの時代がよかった、と言うけれど私も同じだ

時代の波に上手く乗れなかった

その時代のニーズや社会の変化に合わせて適合できる人間ではなかった

 

 

でも、ゲームはルールがあるから楽しい、そのルールをどんどん緩めて便利にしていったら楽しくなくなるのは当然のことかもしれない

 

私だけじゃないだろう、こう思う人間は

 

なんだかなぁ

 

 

便利にすることはいいことだと思うけど、それによって人々が幸せになるかはまた別の話だと思う

 

便利にしつつ、人々に幸福がもたらされるテクノロジーが理想だけど、

 

便利にした結果、幸福になる人間も不幸になる人間もいる訳だ

やっぱりそうするとマイノリティー側の気持ちは排除されてしまう

 

 

老人の方なんて特に、ついていけなくて、寂しい思いをしているんではないか

 

 

だからこそ、私は社会をより良くしたいと考えた時、なるべくあらゆる人間が幸せになる便利さを追求すべきだと思うし、マイノリティーへの配慮も必要だと思う

 

 

 

 

また一方で、時代の濁流に乗れなかった人々は社会に反感を持ちすぎてもいけない

そうなるべくしてなったこの社会を認めつつ、うまーくうまーく自分の心の居場所のようなものを作り上げていかねば

 

それでも今の社会がおかしいと思うなら、声を大にして言うべきだ

 

 

 

 

生きづらさっていうのは、時代が進んで新しいものが出てくる時に、ぽっと生じるものなのかもしれない

 

 

 

 

★補足

 

@marei_de_pon さんのツイートに

 

「本が売れない」出版不況と呼ばれる現象には色々原因があるだろうが、以前ある編集者から聞いた、
「読書層を広げるという目的で、いかに無関心層に売り込むかを考えすぎた結果、本来的な価値の低いモノをつくるようになってしまったかもしれない」
という言葉は、他のジャンルにも当てはまりそうだ。

 

 

 

とあったけど、これなんだよなぁ

 

本当に服好きな層の気持ちを蔑ろに安い服ばかり作って原宿そのものの質が低下

 

いつか物珍しさを求める外国人観光客しか来ないような街になっちゃうよ、もうそうなりつつあるけど

 

 

顧客を増やしたいですとか、世の中を便利にしたいですとか、誰の為の何の仕事ですかって感じだよね

 

 

 

こうして日本は喰われていくんだわ

 

 

 

 

実体のないイデオロギー、戦争

 

私は極端な思考と情緒の持ち主なので、ダメだと分かっていながら物事を右と左に分けがちだ

 

 

目の前の人間を見ない

 

架空の人間を作り出し、目の前の人間を観念上の人間の枠に押し込めようとする

 

 

そうすると、物事が整然とされて分かったような気になる

 

だが、架空の人間は、実体のないイデオロギーに過ぎない

 

架空の他人が自分に近しい場合はとても共感する

そうでない場合はその観念を否定して架空の怪物を作り出す

 

私の思い込みと想像力はとてもアホらしい

 

 

 

人間と人間が戦争をするのは、自分と他人が違うと意識し、架空の怪物を作るからだ

 

近代国家は線引きして自らにアイデンティティを付した

そうすることで、自分と他人は違うと思い込み敵を創造した

 

本当の本当は、皆どこかで繋がっていて、線引きする必要がないのに

 

自分と全く違う他人に対しては寛容になる割に、

自分と似てる他人が自分と違う部分を少し持っていると気付くと、そこに違和感を持って落胆する

 

 

自分は正しい、お前は私と違う、似てるのに、違和感

 

自分が正しいと思う部分、相手が間違っていると思う部分は裏表で、

相手の間違っていると思う部分が自分の中に内在しているからこそ、相手を嫌悪する

 

 

 

カントのdas radikales Böse、根源悪を思い出す

人間は先天的に悪に進む傾向がある

他人が約束を破るのを悪だと判断できるのは、自分も約束を破ろうとする心理を有しているから

他人がお金を盗むのを悪だと判断できるのは、お金を盗みたいという人間的欲求が自分の中にあるから

 

相手と自分が違うという違和感の根底にあるのは、相手と自分がどこかで繋がっている所があるからでないだろうか

 

 

この違和感をどう対処するかが人類の課題、私自身の課題のように思われる

 

敵は自分の中にいる

 

相手と自分はどこかで繋がっているからこそ、壁を、想像上のイデオロギーを、怪物を、作り出す

 

弱さとは、自分の悪を受け止め切れず実体のないイデオロギーを作るということであり、

 

強さとは、相手が自分と繋がっていると思うことである

 

 

 

私もついこの間戦争をした

 

 

本当に大切なのは自分の気持ちだ

 

外堀から、誰かの言葉を借りて両者の壁を乗り越えようとしても限界がある

 

自分の言葉で、自分の思いを素直にぶつけるということがどうも苦手だ

 

 

 

勉強していても、何も生かせてないのだから、勉強は無駄だと言われるんだろう

 

でも、哲学は実学だよ

 

馬鹿だなぁ私

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのような目

 

それにしか向き合わない生活をしているとそればっかになる

 

以前にもこう書いたけど、改めて自分を戒める意味でここに書く

 

 

私は大学で倫理学を学んでいる

 

その中で、「本来の人間の生き方とは、本来の社会のあり方とは」ということを考える

 

ずっとこればかり考えていると頭が湧いてくる

 

 

倫理学の色眼鏡を通して今の社会を見ると、人間は本来の生き方をしていない、機械のようだ、と思えてしまう

 

人間はもっと精神的に豊かになるべきなのに、何故もこう現実は汚い?

 

そういう社会に対するルサンチマンを抱いてしまうから、生きていると苦しくなる

 

しかし、このルサンチマンはただの気苦労だ

最初は倫理学のお陰で視野が広がったのに、未熟な為に段々狭まってしまっただけ

 

社会にはもっと素晴らしい側面がある

 

ゼミの先生が、「あなたは自由ですか?」という課題のレポートを日吉の授業で課した時、商学部や経済学部の生徒の多くが自由だと答え、文学部の生徒は自由ではないと挙って主張したらしい

 

文学部の生徒は世界を「そのような目」で見ることを知ってしまったから、自由でないと答えるのだと思う

 

「そのような目」とは、見えるものを疑う目のことだ

 

しかし、「そのような目」自体は悪いものではない

現実を疑ってかかることは、世界を推進させる力になるかもしれないし、人生を豊かにさせるかもしれない

 

ただ「そのような目」でばかり社会を見つめていると、悪いところばかりが見えるようになって息をするのも苦しくなる

 

「そのような目」ばかりが正しくて、それ以外の目はダメだというようになり、傲慢になっていく

 

これに最近気付いたのだから私は未熟だ

 

常に疑って否定して自虐すると、「そのような目」は力を増すと共に狂気じみてくる

 

まるで、NARUTOのサスケの写輪眼のようだ

 

何を信じてどう身動きをすればいいか分からなくなる

一つのことを突き詰めすぎてしまう

 

 

だから、いつも写輪眼を使ってはならないし、現実を色んな視点で見れるトンボみたいな複眼が必要だ

 

そうやって上手く眼鏡を変えることで、もっと生きやすくなるのではないか、他者とも上手く接することができるのではないか、臨機応変になれるのではないか

 

いっぱい失敗して何度も後悔してきたし、これからもまたそういう事が起こるんだろう

その度に自分の目線が正しかったか問い正したい

もっと色んな目を持つ他人のことを受け止め、もっと素敵な人間になりたい

 

人には人の映し出す世界がある、ただそれだけのこと

人の意識や人生観を変えたいという行為は賭けや祈りのようなもので、その思いは真摯に持った方がいいだろう

 

 

 

 

 

強迫

 

その魔物は隙間にすっと入り込んで、核から中身を壊していく

 

外壁は厚いのに、免疫が弱いせいで中身はもう取り返しがつかない

 

 

この持病にはもう中学生の頃から悩まされている

 

ちょっとしたプライドが原因で、やりたいくもないことを毎日毎日やり続け、その度に自分を褒めてあげては自尊心を回復させて

 

やるべきなのに、やろうと思わない自分を痛いほど責めて責めて責めて責めて攻め続けて

 

自分を毎日のように傷つけて来ました

 

人の為に生きられない自分も、何かの制約がないと頑張れない自分も、我儘な自分も、恋人に嫌われてしまう自分も心から嫌いで仕方ない

 

魔物はいつも自分で自分を蝕んで自傷していた

 

ただただ責めることで、何も考えず、動くことで自分を許したあの頃

 

自分も周りも責めつつ受け止め、考えて、しかし現実的な対処法を生む生命力もない現在

 

自省や自己分析が世間では大事らしいけれど、私はそれをやると自己否定に走る

 

否定せずそんな自分も愛してあげたかった

 

弱さは弱さとして、丸ごと包み込んであげたかった

 

 

私、子供になれるかなぁ

 

私、いつかこの魔物、倒せないかなぁ

 

もう、核が何か分からないから、必要以上に大人になった自分がつまらなすぎて失望する

 

こんなにつまらない人間がいていいのかと思う

 

もっと我儘で創造的で優しくなりたいなぁ

 

 

 

 

 

不器用さと

 

それにしか向き合わない生活をしているとそればっかになる

 

だから一生懸命考えて生きていても先は見えてこない

 

そうして後々自分の頭の固さと無意識の罪に絶望し、取り返しのつかない過去への償いが始まる

 

共感の振りをした、低い自尊心

拘りを正当化する振りをした、逸脱するものへの反感

 

パッチワークのように、破綻しては統合させた継ぎ接ぎの私

 

 

しかし、あの頃の私は、私という範囲内で懸命に生きていたことは間違いない

 

例え馬鹿でも経験不足でも、毎日息をして何かに拘りを持って生きていたことは誇るべきことであろう

 

継ぎ接ぎも拘りも悪いことではない

 

ただ人として大事な部分を見失わないように頑固になり過ぎないように広く広く

 

「どうしても」なんていう拘り、私にとって何なのだろうか、そんなものは虚像に過ぎぬか、一番大事なものは何か、そこが人とズレていて且つ拘りそれ自体が抽象的で理想的だから、何もわからなくて実社会に適合出来ず死んだ

 

おしまいだな