夢幻泡影

慶應女子大生の呟き

そのような目

 

それにしか向き合わない生活をしているとそればっかになる

 

以前にもこう書いたけど、改めて自分を戒める意味でここに書く

 

 

私は大学で倫理学を学んでいる

 

その中で、「本来の人間の生き方とは、本来の社会のあり方とは」ということを考える

 

ずっとこればかり考えていると頭が湧いてくる

 

 

倫理学の色眼鏡を通して今の社会を見ると、人間は本来の生き方をしていない、機械のようだ、と思えてしまう

 

人間はもっと精神的に豊かになるべきなのに、何故もこう現実は汚い?

 

そういう社会に対するルサンチマンを抱いてしまうから、生きていると苦しくなる

 

しかし、このルサンチマンはただの気苦労だ

最初は倫理学のお陰で視野が広がったのに、未熟な為に段々狭まってしまっただけ

 

社会にはもっと素晴らしい側面がある

 

ゼミの先生が、「あなたは自由ですか?」という課題のレポートを日吉の授業で課した時、商学部や経済学部の生徒の多くが自由だと答え、文学部の生徒は自由ではないと挙って主張したらしい

 

文学部の生徒は世界を「そのような目」で見ることを知ってしまったから、自由でないと答えるのだと思う

 

「そのような目」とは、見えるものを疑う目のことだ

 

しかし、「そのような目」自体は悪いものではない

現実を疑ってかかることは、世界を推進させる力になるかもしれないし、人生を豊かにさせるかもしれない

 

ただ「そのような目」でばかり社会を見つめていると、悪いところばかりが見えるようになって息をするのも苦しくなる

 

「そのような目」ばかりが正しくて、それ以外の目はダメだというようになり、傲慢になっていく

 

これに最近気付いたのだから私は未熟だ

 

常に疑って否定して自虐すると、「そのような目」は力を増すと共に狂気じみてくる

 

まるで、NARUTOのサスケの写輪眼のようだ

 

何を信じてどう身動きをすればいいか分からなくなる

一つのことを突き詰めすぎてしまう

 

 

だから、いつも写輪眼を使ってはならないし、現実を色んな視点で見れるトンボみたいな複眼が必要だ

 

そうやって上手く眼鏡を変えることで、もっと生きやすくなるのではないか、他者とも上手く接することができるのではないか、臨機応変になれるのではないか

 

いっぱい失敗して何度も後悔してきたし、これからもまたそういう事が起こるんだろう

その度に自分の目線が正しかったか問い正したい

もっと色んな目を持つ他人のことを受け止め、もっと素敵な人間になりたい

 

人には人の映し出す世界がある、ただそれだけのこと

人の意識や人生観を変えたいという行為は賭けや祈りのようなもので、その思いは真摯に持った方がいいだろう